「富嶽三十六景」など生涯を通して3万点以上の作品を描き残したといわれる画狂老人浮世絵師・葛飾北斎。
1998年に米誌『ライフ』が企画した「この1000年間に偉大な業績をあげた世界の人物100人」に、日本人では葛飾北斎だけが選出され、世界一有名な日本人画家として愛されています。
わしって、そんなに有名だったの?!
そんな北斎を北斎たらしめた師匠は2人います。
今回はわしを育ててくれた師匠を紹介するよ!
ちなみに、北斎の人生については、他の記事で詳しく書いているので、興味がある方はぜひ読んでいただけると嬉しいです⇩
勝川 春章(かつかわ しゅんしょう)
北斎の師匠一人目は勝川春章です。
若き日の北斎(当時の名は鉄蔵)が、版木彫りの生業を捨てて絵師を志した時、その門戸を叩いた先が勝川派の祖・春章でした。
春章は江戸時代中期を代表する浮世絵師の一人で、特に役者絵において大きな功績を遺しました。
形式化していた当時の役者絵分野で、役者の個性を捉えたリアルな似顔絵を描き出し、「似顔絵の祖」と呼ばれるほどの大きな影響を与えました。
晩年には、肉筆の美人画も手がけ、その繊細で優美な作風でも高い評価を得ました。
北斎が勝川派に入門してからの画号は「勝川春朗(かつかわしゅんろう)」。
春章の「春」と、春章の別号である旭朗井(きょくろうせい)の「朗」を取った名前です。
二字とも師匠の名前から譲られているのは、他の門人から見ても破格の扱いだったそうです。
わしの春朗時代は15年間続いて、浮世絵版画は200点以上も作っちゃった!(ドヤ)
春章が他界した後は、もはや得るものはないと悟ったのか、「春朗」の名を後輩の豊丸(二世春朗)に譲渡して勝川派を離脱しました。
森羅万象
北斎の師匠一人目は森羅万象です。
そういうカッコいい名前の人がいたわけではありません。
この世界に存在する、数限りないすべてのものや事象のことです。
勝川派を離脱後、俵屋宗達で有名な琳派に所属し、独立。
以後終生、他派に属さず、森羅万象を唯一の師として仰ぎ、制作に没頭しました。
北斎の作品には、山や川、海の風景から、動植物、さらには人間の生活まで、あらゆるものが取り込まれています。
その視点は、単に対象を描くだけでなく、その背後にある力やエネルギーまでも感じさせるものでした。
彼の代表作である『富嶽三十六景』は、その一例であり、富士山を中心にした多様な視点からの風景が描かれています。
北斎は、富士山を単なる山としてではなく、日本の象徴、そして自然の力そのものとして描きました。
さらに、『北斎漫画』では、動物、植物、日常生活の一コマなど、あらゆる事象を自由奔放に表現し、森羅万象に対する彼の興味が感じられます。
彼にとって、森羅万象は単なる描画対象ではなく、生命のエネルギーや自然の摂理を映し出す「鏡」でした。
このため、彼の作品は、今でも見る者に新鮮で豊かな自然の美しさや力を伝え続けています。
ちなみにわしの「北斎」という名前は、北斗七星にちなんで名付けたよ。
私たちは化政文化にインスパイアされた現代的音楽を制作しています。
ぜひ聞いてくださると嬉しいです。
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