※この考察は、NHK大河ドラマべらぼうのネタバレを含みます。

大河べらぼう20話では、蔦重と喜多川歌麿が本格的に力を合わせて、江戸に一大出版ブームを起こそうとする挑戦の姿が描かれました。
才気あふれる絵師と破天荒な版元――ふたりの挑戦は、浮世絵の歴史を塗り替えるものでした。
しかし、史実に残る歌麿の最期はあまりにも静かで残酷です。
喜多川歌麿にとって後ろ盾であり保護者であった蔦重の死。
この出来事は、歌麿にとって創作の自由と発表の場を同時に奪う出来事でした。
そしてやがて幕府の弾圧が歌麿を襲い、絵師としての晩年を閉ざしていきます。
この記事では、史実に残る蔦重亡き後の喜多川歌麿の運命と、処罰に至るまでの背景をQ&A形式で読み解いていきます。
⇩ちなみに、他にも大河ドラマべらぼうに関する記事を書いていますので、興味のある方はぜひ読んでいただけると嬉しいです!⇩

Q.蔦屋重三郎はいつ亡くなったの?
A.1797年(寛政9年)頃に亡くなったとされています。
正確な月日は記録に乏しく、没年にも諸説ありますが、一般的にはこの年が最期と考えられています。
死因は脚気であったと伝えられています。

脚気とは、ビタミン欠乏症の一種よ
文化の流通と才能発掘を一手に担っていた蔦屋の死は、江戸の出版・芸術界に大きな衝撃を与えました。
とりわけ喜多川歌麿は、最も理解のある支援者を失い、表現の場が急激に狭まることになりました。
Q. 蔦屋の跡を継いだ人物はいたの?
A. 店舗や屋号「蔦屋」は継承されましたが、初代ほどの人物は現れませんでした。
番頭が蔦屋の名を継いでそれ以降4代目まで続きますが、蔦屋ブランドは徐々に勢いを失っていきます。
新しい表現を求める気持ちを忘れず、実行にまで移した初代の功績は圧倒的でした。
東洲斎写楽においては、当時はいまいち人気が出ませんでしたが、冒険的な訳者絵を手がけさせ、近現代では最高の評価を得ています。
これは採算ばかりではない版元(プロデューサー)の優れた美意識が、浮世絵を芸術的価値のあるレベルまで押し上げたからに違いないでしょう。
初代・蔦重はまさに「唯一無二」の出版人だったのです。
Q. 喜多川歌麿にとって蔦屋の死はどれほどの影響があったのか?
A. 影響は極めて多大であり、歌麿の活動を縮小させていく程でした。


喜多川歌麿にとっては最大の後ろ盾であったため、それまでのような革新的な作品を発表しにくくなり、活動は次第に縮小していきます。
さらに、追い討ちをかけるように寛政の改革による出版物への厳しい検閲・制限がかかる中で、歌麿は以前ほど自由に作品を作ることができない環境に追い込まれていきました。
蔦屋重三郎の死(1797年)は、歌麿にとって支援者の喪失を意味し、出版機会の減少や表現の制限にも直結したのです。



寛政の改革とは、当時の江戸の風紀の乱れや贅沢な風俗の広まりを警戒してあらゆることに制限がかけられた改革だよ



まさに、「江戸のホワイト社会化」じゃあ…
Q. 蔦屋亡き後、歌麿はどのような作品を描いていたのか?
A. その後も美人画を中心に活動をし続けたはものの、やや保守的になりました。
蔦屋の死後も歌麿は「美人画」を中心に活動を続けましたが、その作風はやや保守的になっていきます。
また、若い女性を描くことが大半でしたが、「母と子」を象徴する絵が増えました。
歌麿がどのような暮らしだったか、人物だったかは全く資料が残っていません。
しかし、この作風の変化から推測するに、妻子がいたのではないか?と言われています。





妻子がいたって…なんでワシに内緒にしてたんじゃ!



ドラマで歌麿の幼少期・唐丸がなぜ謎の少年として登場したのかがなんとなくわかるエピソードね
一方、一部ではかつての大胆さやユーモアが薄れたと評価されることもあります。
とはいえ技巧的な完成度は依然として高く、後期作品も現在では高く評価されています。



蔦重が亡くなった後は、鶴屋喜右衛門や西村屋与八とも手を組んで作品を制作したみたいだぞ



ドラマでこの二人は序盤、蔦重と対立構造にあったから、後々歌麿とも作品を作るなんておもしろいわね。
寛政の改革により、「大奥」や大名家の女性たちの私生活が浮世絵の題材になることは、幕府の権威に対する挑戦と見なされました。
歌麿はそういった題材を積極的に取り上げていたので見せしめ的に処罰されました。(複数説あり)
Q. 歌麿が幕府から処罰されたのは蔦屋の死と関係ある?
A. 間接的には関係があります。
もし蔦重が存命中であれば出版物に対する慎重な判断や調整がなされた可能性がありますが、保護者であり後ろ盾であった蔦重を失った歌麿は表現の「一線」を見誤ったとも言われています。
1804年、歌麿は幕府から「贅沢な風俗を助長する」として手鎖50日の処罰を受けました。
これは彼の表現の自由が大きく制限される転機でした。
Q. 晩年の歌麿はどう過ごしていたの?
A. 処罰以後の歌麿は、かつての勢いを失いつつも創作を続けました。
出版数は減ったものの、美人画や風景画を描きました。
晩年、歌麿は病気になり、版元たちは回復の見込みがないと知ると逆に依頼が殺到したそうです。
1806年、江戸にて死去。
享年は50代と推定されます。



若すぎるよ…
ワシなんて90歳まで大往生しちゃった



でも江戸時代の平均寿命って45歳くらいだから、親父どのが長生きだっただけだよ…


Q. 歌麿の評価は蔦屋亡き後に下がった?
A. 当時の表舞台からは姿を消しましたが、後世の評価は高く、ヨーロッパでの「ジャポニスム」ブームにより再評価されました。
浮世絵や錦絵は、江戸末期には流行遅れとされて日本人に見向きもされませんでした。
多くの浮世絵は屑屋に持ち込まれて釜茹でにされて再生紙扱いされたこともあったそうです。
しかし、19世紀後半のヨーロッパで巻き起こった日本美術ブーム「ジャポニズム」により、浮世絵の扱いが一変します。
このブームは、1850年代後半に日本が開国し、日本の工芸品や浮世絵がヨーロッパに大量に渡ったことで始まりました。
フランスを中心に、画家・工芸家・音楽家たちが日本の浮世絵や陶磁器、着物、文様、構図などに強い影響を受け、作品に取り入れました。
とくに、クロード・モネなどの印象派の画家たちは、歌麿の描く“日常の女性”や独特の構図からインスピレーションを得ました。
また、モネの日本庭園や着物の女性を描いた作品には、歌麿ら浮世絵師の構図や感性が色濃く反映されています。


この絵はモネの代表作の一つ「ラ・ジャポネーズ」です。
これは妻のカミーユに日本の着物を着せ、フランス国旗の色が入った扇子を持たせた作品です。



モネは多くの浮世絵を収集していて、クロード・モネ財団 によると、歌麿の版画46点がジヴェルニーのモネの家に保存されているらしいぞ
また、ゴッホは浮世絵を「目のごちそう」と呼んで収集しており、歌麿や広重の作品を模写するなど大きな影響を受けました。
明治時代に入り、西洋化が進むなかで歌麿の作品も忘れられかけていましたが、パリ万博などを通じて逆輸入的にその芸術性が再評価され、海外の美術館やコレクターが高値で収集することで、歌麿の名声は世界的なものになっていきました。
まとめ:世界の喜多川歌麿
喜多川歌麿は、江戸時代における“女性像の革命者”でした。
そしてジャポニスムの流れの中で、その独創的な表現は西洋の芸術観をも変える衝撃を与えました。
それは時代も文化も超えて、今なお多くの人を魅了し続けています。
いかがでしたか?
大河ドラマべらぼうでは喜多川歌麿役を実力派俳優・染谷将太さんが演じています。
みんなで一緒にべらぼうを楽しみませんか?
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