日本が誇る江戸文化「浮世絵」といえば、誰を思い浮かべますか?
日本の文化が好きな方であれば、葛飾北斎、歌川広重、喜多川歌麿など…一度は聞いたことがある名前もあるかと思います。
浮世絵は単なる絵画ではなく、江戸時代の庶民の生活や美意識を映し出す貴重な資料でもあり、その魅力を知れば、当時の人々の考えやものの見方、そして現代とのつながりも感じることができるはずです。
今回は特に有名な5人の浮世絵師を紹介するよ!
ちなみに、2024年10月12日〜12月18日まで、香川県の高松市美術館で、特別展「五大浮世絵師展 ―歌麿 写楽 北斎 広重 国芳」が開催が開催されます。
お近くの方はぜひ!
浮世絵とは?
浮世絵は、江戸時代に大衆文化として花開いた日本の木版画の一種です。
庶民の生活や風俗、役者、美人などを題材とし、その鮮やかな色彩と大胆な構図で人々を魅了しました。
浮世絵の魅力は、その多様性に尽きます。
役者絵、美人画、風景画など、題材は多岐にわたり、それぞれの作品に江戸時代の息吹が感じられます。
版画師、彫師、摺師といった様々な職人が結集して1枚の絵が生み出される浮世絵は、まさに総合芸術と言えるでしょう。
さらに浮世絵の構図は、大胆な省略やデフォルメが特徴的で、西洋の絵画とは異なる美意識に基づいています。
ゆえに西洋の印象派をはじめとする多くの芸術家に影響を与え、日本文化を世界に広める役割も果たしました。
風景画の葛飾北斎
葛飾北斎は、「世界の北斎」として世界中の人々から愛される浮世絵師の一人です。
また、化政文化を代表する芸術家5人のうちの一人としても有名です。
彼が描いた「神奈川沖浪裏(GREAT WABE)」は1867年のパリ万博をきっかけに海を渡り、「ジャポニズム」という現象を巻き起こすほど、西洋の芸術にも大きな影響を与えました。
北斎は特に風景画で有名です。
富士山をはじめ、自然を題材にした作品が多く、自然に対する深い愛情が感じられます。
自然がダイナミックに見えるような構図も特徴的です。
代表作:「富嶽三十六景」シリーズ
「富嶽三十六景」は、富士山をあらゆる角度から様々な表情で描いた錦絵(多色摺の木版画)です。
全46枚からなる葛飾北斎の代表作です。
北斎はすでに70歳を過ぎていましたが、晩年期の北斎が、成熟した描写力で描き出した個性的な富士は、不朽の名作と言っていいでしょう。
名所絵の歌川広重
歌川広重もまた、化政文化を代表する芸術家5人のうちの一人として有名です。
広重の「東海道五十三之内」シリーズは現代でも人気の高い浮世絵作品のひとつです。
当時人気の観光地などを描いた「名所絵」を極め、風景画の達人として知られる浮世絵師・歌川広重。
「歌川」と聞くと、国芳、また浮世絵展をよく観に行く人は豊国や国貞など・・・「歌川」の名前がつく浮世絵師がたくさん浮かぶかと思います。
その知名度の理由、広重が浮世絵界に一大勢力を形成した歌川豊春を祖とする「歌川派」に属していた一人だからです。
広重は横浜開港の前年である1858年に江戸で流行したコレラに罹り、この世を去りました。
享年62歳でした。
代表作:「東海道五十三次」シリーズ
広重が37歳の時、後世にまで語り継がれる大ヒット作「東海道五十三次之内」シリーズを出版します。
東京と京都を結ぶ東海道の全ての宿駅を描いた55図の浮世絵シリーズは、全国津々浦々の風景を詩情豊かに描き出し、「名所絵の広重」として好評を博しました。
本作は世に出した瞬間から注文が殺到する大ベストセラーで、広重はこの作品で名所絵を描く浮世絵師としての地位を不動のものとしました。
本シリーズがヒットした理由は、街道が整備され、人や物流が盛んに往来する中で起こった旅行ブームによる当時の人びとの旅への高い関心とあこがれによるのだそう。
それまで風景は、役者絵や美人画などの背景として描かれる程度でしたが、広重の成功により風景画は重要な絵画ジャンルのひとつとなったと考えられています。
広重の風景画の特徴の一つが、季節や天候による巧みな演出と人々の営み。
晴れやかな東雲の空、魚河岸の賑わい、大名行列の旅立ち……観る者の記憶に語りかけてくるような情景が、画面の中に広がっています。
北斎と比較すると、風景の一部として絵の中にたくさんの人が描かれることが多いです。
人々を描くことによって、当時の人に「この景色を見たい」というような憧れを湧き立たせたのでしょう。
美人画の喜多川歌麿
美人画を描かせたら右に出るものはいないとされるほど、浮世絵の美人画の代名詞:喜多川歌麿。
出生地は江戸や川越、京都と定かではないのですが、18歳ごろに、北川豊章の画号で浮世絵師としてデビュー。
20代は多彩な画風や媒体を試し〝自分さがし〟に明け暮れ、独自の画法や構図を胸に温めてきた歌麿の努力は、40代を迎えて一気に開花しました。
狂歌絵本や春画で得た人気と、版元(現代で言うプロデューサー)蔦屋重三郎の引き立てもあって、かつては先達の真似でしかないと酷評された美人画において数々の名作を世に輩出し、確固たる地位を築きました。
しかし、幕府は浮世絵が風紀を乱すものと考え、表現に様々な取り締まりがされました。
そこで歌麿は取り締まりの裏をかいた工夫を凝らし、次々に作品発表し続けました。
そんな反骨の絵師に対して、幕府は手鎖50日という重い刑を科しました。
その後復活はしましたが、画力も意欲も失した歌麿は、54歳の時にかつて大人気を博した絵師とは思えない寂しい最期を迎えました。
歌麿の美人画
江戸時代では、口は小さく鼻筋が通り、切れ長の表情を持つ女性たちが美人とされていました。
男性のみならず女性すらも魅了した浮世絵は、当時は飛ぶように売れ、多くの人々を魅了しました。
役者絵の東洲斎写楽
彗星のごとく浮世絵界に登場し、わずか10ヶ月で忽然と姿を消した謎の絵師・東洲斎写楽。
歌舞伎役者の半身像を描いた「大首絵」140点を輩出しました。
その出自や経歴については様々な研究がなされてきましたが、現在では阿波徳島藩 主蜂須賀家お抱えの能役者:斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、宝暦13年(1763年) – 文政3年(1820年))とする説が有力だそうです。
大首絵
写楽の大首絵(役者絵)の背景部分にはこれまでにない工夫がありました。
人物の部分に型紙を当て、墨に鉱物性の雲母(きら)と膠(にかわ)を混ぜた「黒雲母」と呼ばれる光沢のある絵具を刷毛で引き、役者の姿を際立たせる演出を施しました。
浮世絵の祖 菱川師宣
菱川師宣は、浮世絵の歴史を語る上で絶対に欠かせない重要な絵師です。
菱川師宣以前には浮世絵と呼ばれる物が存在しませんでした。
菱川師宣の手によって生み出された物が、浮世絵の源流となったのです。
つまり、菱川師宣が存在しなかったのなら、浮世絵が存在せず、浮世絵の歴史自体がなくなってしまいかねないのです。
版画は元々読み物の挿絵として利用されていましたが、それでは書物に親しみを持つ人にしか、版画の認知がありませんでした。
そこで菱川師宣は、読み物の中の挿絵を増やし、サイズを大きくして、庶民に広まりやすく編集したのです。
こうして版画の魅力が高まって価値が上がり、さらに挿絵で使われていた版画を1枚の絵画として販売。
版画は大量生産が可能かつ価格も安く、庶民の手に届く金額でした。
そのため、それまで富裕層にしかできなかった「絵を所有する喜び」を多くの人が味わえるようになったのです。
これまで古い絵の模倣ばかりしていた「御用絵師」達とは違って、庶民が求めるような絵が広まりました。
後世の絵師達が浮世絵と言う巨大な芸術ジャンルが出来上がったのは、菱川師宣と言う先駆者が基礎を築き、市場そのものを作りあげたからなのです。
代表作:「見返り美人図」
菱川師宣の代表作「見返り美人図」
師宣の晩年の作品で、1693年頃に描かれたと言われています。
1948年の戦後初となる週間切手に採用されたことも、この作品が有名になったきっかけの一つです。
まとめ
今や世界中で人気を誇る浮世絵。
庶民の間で広まった文化ゆえに、当時の人々の暮らしや価値観が克明に描かれている素晴らしい作品が、今も多く残り愛されています。
そんな作品を世に輩出した浮世絵師たちもとてもユニークな人物ばかりでした。
いつの時代もクリエイターは変わった人たちばかりで面白いね!
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